mubesan's blog

人生軽やかに生きたいむべさんの毎日

チャレンジ精神が仇となり、エンジニア転職も医学部編入も失敗した全然貯金ないアラサー独身総合職OL。毎日を浮遊しています。気ままにブログ書いたりラジオやったり翻訳したり。最近はポジティブ心理学を学ぶことに夢中。医学部編入note https://note.com/mubeday/

7月の総括/宮崎5000円絶景海ホテル/見てよかった映画/上司からのモチベアドバイス/ノラ・ジョーンズのチケット買った

夏が始まりましたね、7月も振り返っていきたいと思います。

 

収入・支出

すみません、あまりにもお金を使いすぎて晒したくないので、控えます。

食費は毎月自炊用は安定して15,000円弱、外食がさらに10,000円が追加されるイメージですが、飲み会が増えるとさらにプラスですね。。

本当にお金がかかる。お金使いが荒い。。

あと、8月末の京都旅行と10月の東京旅行代を先に支払いしましたので、もう支出がすごすぎて反省しました。20万円は使いました、、

 

1年ぶりにTOEIC受験したら点数が落ちた

TOEIC受験

前回860点でしたが、今回835点でした。

落ちましたが、だいぶ久しぶりだったので、仕方ない。

最終的には900点を超えたい・・・っ!

とにかくリーティングが苦手なので、読み込まないとですね。

 

読んでいる本

夜と霧

これは多くの人が読んでいる本だと思いますが、なかなか難しい本読むのに時間がかかります。

啓発本とかなら本から何かエッセンスとかを取り出そうとポイント、ポイントを意識して読みますが、この本は読み進めるたびに衝撃的な描写かつ人間の感情・感覚についての繊細な描写があってなんとも言えない気持ちになる。

読むのに時間がかかります。

 

&Premium やっぱり京都、街歩きガイド

ほぼ毎年1回は行っている京都、8月末の京都ひとり旅行は今まで行ったことないところに挑戦したいです。

 

買ってよかったもの

生活道具編
Qoo10で買った紐付きスマホケース

www.qoo10.jp

 

紐付きもケースを友達が持っていたので気になって買ってみたところ、ちょっとした散歩などにもポケットのある服でなくても肩に下げれるだけなので楽ちんです。

あとデザインが可愛い。

色バリエも豊富ですが、緑が可愛いな〜と思ったところ深色の緑でドンピシャでした。

 

見てよかった映画(The Last Bus)

kimibus-movie.jp

ロードムービーのようなゆったりした映画。

90歳近くのおじいさんの主人公が、まさかのハリーポッターのピーター・ペティグリュー役ということにびっくり!

 

自分はこういうロードムービーみたいなのが好きなのかなと気づきました。

ゆったりしたリズム、音楽と壮大な景色、出会った人々とのとのあったかい交流。

全てがよかった〜

 

何年かぶりの夏の遊び

地元の夏祭り

3年ぶりに行けた地元の祭り。周りは高校生とかの若い子供たちばっかりでしたけど、いい大人が地面に座ってビールを飲んだりお好み焼きを食べたことでとても楽しかった。

 

職場の人たちとの楽しい飲み会

とても尊敬する上司に、職場の周りの人とのモチベの差について相談しました。

自分が一生懸命やりたいと思っていても、目的意識が違う方が「むべさんみたいな人が頑張ってくれると助かる。その仕事大変だから」「今度いつ休めるかな」みたいなコメントが飛んでくることがあり、なんのためにやるのか?という意識を持つことがたまに馬鹿馬鹿しくなることがありました。(実際自分だけが忙しいとかあるし)

けど上司からは「他人に自分のモチベーションを影響されないマインドでいることが大事。私は私、で区切りをつけよう」と言われてスッと入ってきました。

こういう上司と出会えたことに心からありがたいと思います。

 

宮崎の海の見える絶景ホテル1泊2日女2人旅

宮崎の日南市にある「南郷プリンスホテル

travel.rakuten.co.jp

 

f:id:mubesan:20220811123103j:image

 

すごく良かった〜!

宮崎県の旅クーポンがあり、1泊朝食付きで5,000円くらいでした。

ワクチン接種証明が必要だったのですが、出発後見事に我々2人とも接種証明書を忘れ、現地で木下グループPCR検査を1,600円で受け、陰性の証明を画面の写しで見せて割引は受けられました。

 

BGMは波の音と案内がありましたが、まさにそんな感じ。

大きな窓から静かな海が見えて、波の音がずっと聞こえてきて、本当に最高の経験でした。

 

思い切った行動

ノラ・ジョーンズのライブチケットを買った

norahjones.jp

 

チケットぴあで初めてチケットを買いました。

高校生の時から聞いていたノラ・ジョーンズ

ライブとかあまり行かないのですが、たまたまみたサイトで紹介されていて思い切って買いました。

ひとりですけど、お酒飲みながら彼女の優しい音楽聴いたりしたいな〜

 

こんな感じで夏の始まりを楽しんだ7月でした。

 

20代でやっておいてよかったこと/やっておけばよかったこと

来週30歳を迎えるので、自分の20代を単純にタイトルの目線で振り返ります。

もしかしたら更新するかもです。

 

20代でやっておいてよかったこと

  • ひとり暮らし
  • 自炊のスキルを上げたこと
  • 車の免許取得
  • 大学卒業旅行で海外旅行
  • 業界の違う友達の輪を広げたこと
  • 意味のわからない大学の化学の勉強を頑張ったこと
  • お金をたくさん使ったこと
  • 朝までクラブ
  • 遊びな恋愛とか真剣な恋愛とかいろんな恋愛経験(多分30代になると遊ぶことは難しい)
  • パパ活じみた男遊び・合コン(今思えば最高になめてるけど最高だった経験)
  • とことんいろんな種類のバイトをしまくったこと(塾講師、イベントバイト、清掃、化粧品販売員、居酒屋、試食販売員、)→自分に合う仕事を知るきっかけにできた
  • ライフログなどの記録をつける習慣を身につけたこと
  • IT業界への挑戦や医学部再受験などフィールドの違うことへ興味をもち・挑戦したこと(結局失敗したけど)
  • 会社員でも合間を縫って海外旅行したこと
  • 服とか物とかを買いまくったりお金の無駄使いをしたこと
  • 馬鹿みたいにお酒を飲んで二日酔い・記憶なくす経験
  • 大きな会社で長く働く経験(長く働くことで良さもわかってくる)

 

20代でやっておけばよかったこと

  • 大学生もっと英語の勉強しとけばよかった(モチベがないと難しいよね)
  • 留学(お金なくてできなかったけど、今思えばお金借りたり奨学金とか検討すればよかった。)
  • 大学生の時の貯金習慣(学生なら500円でも貯金できればいい)
  • 大学生の時にもっとひどい安旅しとけばよかった(東南アジアの安宿をはしごするとか)
  • 学部に縛られずインターンなどの経験をすればよかった(理系だったからそんな考えすらなかった)

 

意外とやっておけばよかったことが今からでもできそうなことが多くてよかった・・・・

多分、このやっておけばよかったことを30代で挑戦するのかもしれない。

 

気持ちが上向きになる方法の把握

気分が上がらないなあと思っている時、何かすると、あっ、今心が軽くなったと思う瞬間があります。

けれど、それは一瞬の出来事ですぐに忘れてしまうので、私はすぐにスマホで書き留めるようにしています。

 

例えば、

息を大きく吸った時。

自転車で風を切って走る時。

朝の1分ストレッチをした時。

化粧水を肌に押し込んでいる時。

口を大きく開けて意味わからない言葉を言ってみた時。笑

 

この前も、在宅勤務が続いて人としゃべる機会が少なくなっていた時、朝、気分も体もズーーーんとなってしまった時、youtubeで朝ヨガを5分やっている動画を見ながらストレッチをしたらパッと気分が軽くなりました。

 

あとは夕方の5分筋トレも、2セットあるけどキツくて1セットしかできない、けれどパッと気持ちが明るくなった!こういう経験って大事だなと思います。

 

あとは私はライフログを書いているのですが、1ヶ月前に自分の考えていたことを振り返ったりする瞬間もたった数分なのですが、自分の気分を上げる手法だと思っています。

mubesan.hatenablog.com

 

今まで仕事の後に飲んだりすることがストレス発散だと思っていましたが、そうではなくて自分の気分が上がる、嬉しくなる瞬間は日常的に意識して作り出せることを可視化すると毎日の気分が少しラクになるのかな、と思いました。

 

1990年代にMacをいじっていた頃の記憶/1996年のポケモンチート技/おもしろフラッシュとかの話

今では多くの人が使っているMacのコンピューター(言い方古い?)ですが、昔のことを思い出すとまさかこんな世界になっているなんて当時は全く思っていませんでした。

 

私の父親が昔から大のMac好きで、当時は、家族から変なりんごマークのついたコンピューターばっか買うのやめてくれという扱いを受けていましたが、今ではりんごのマークがついたコンピュータを多くの人が使っていることに驚きます。

(当時の父親に言いたい。コンピューターよりMacの株を買えと。)

 

父親の部屋は今でも雑誌や本が散乱して埃まみれなのですが、一番はとにかく机の上の何台もあるコンピューターたちでした。

当時は小さめの段ボール箱のような大きさの白いコンピュータで、画面は少し丸みを帯びているものでした。

父親の部屋にこれが3台くらいあった記憶

今でもこんな機械が家に何台もある

 

今記憶にあるのが、幼稚園生の時(1996年)に発売された初代ポケモンを遊んでいたとき、どこからか私が最初の草むらでキャタピーをレベル99にできる裏技があると聞きつけてきて、父親にそれをいうと何か紙で印刷されたチートを教えてくれました。

 

今思えば、当時のネットからそういう情報を仕入れてきたのだと思います。

その時、すごい宝物のような貴重な情報を自分だけが知っている!という感覚でした。

今なら誰でも検索して情報を手に入れることができますが、当時はすごく貴重でした。

 

最初の草むらで、上に何歩、右に何歩とかするとレベルが99になるのです。

ただ、ジムリーダーのバッジを持っていない中でレベル99のポケモンを持つと、ポケモンが言うことを聞かないので、結果は散々で、そのチートはそれ以降は使わずに真面目にすることにしました。

 

小学生くらいになると、

「おい、パソコンに興味はあるか?遊んでみろ。」(本当に父親はこんな喋り方です)

と父親とコンピューターをいじったりしていました。

 

当時、デスクトップなどの概念も知りませんでしたが、その「デスクトップ」の中にあったゲームのようなものを押すと、お寺とか山とかが書かれたデジタルイラストが画面の中に現れました。

 

そこで山を押すと鳥が飛んだり、お寺を押すと鐘の音が鳴るようなそういうゲームでした。

そもそもパソコンで何ができるかもわからない、みたいな中でたまに開いて音が出るそのゲームみたいなものをするくらいでした。

 

学校でもパソコン室というものがあり、ごついパソコンがたくさん並んでいるのですが、当時は、ノートパソコンなども手に入れることはできなかったので、わざわざそういう施設に行かないとパソコンは触れることができない機械のような位置付けでした。

 

「お父さん!Macって人気ないんだからWindowsに変えてよ!学校の授業もWindowsなんだから!」そんなことを叫んでいたことを覚えています。

 

確か1998年にiMacが5色展開で出てきて、家に青色のコンピューターが仲間入りしたのを覚えています。

 

中学生の時で2005年くらいになると、ガラケーを親が持ち始めたくらいで、ネット、とかそういう感覚のものも自分は認識していませんでしたが、何か検索すると面白いサイトが出てくるということは知っていました。

 

親のガラケーを借りてモバゲーや個人ホームページ、前略プロフ2ちゃんねるを見ていましたが、youtubeで意味のわからない動画を見たり、「おもしろフラッシュ」を見るのはもっぱら画面の大きいMacのコンピュータを使って見ていました。

父親の仕事を中断させてサイトを見ていたことを覚えています。

 

懐かしいおもしろフラッシュたち↓


www.youtube.com

 


www.youtube.com

 

そこから、音楽プレーヤのipodがでて、すっかり私もipodshuffleとかで音楽を聴くようになり、さらに、iphoneが発表されてからはあのリンゴマークがどんどん広がっていった記憶があります。

愛用していたipodshuffle。再生される曲はランダム。

 

ただただMac、というかの小さい頃のコンピューターとの記録を綴るだけでしたが、とにかく言いたいのは父親が株でも買ってくれてたら最高だったのになということです。

 

↓歴代Macの画像はここからいただきました。

MACerへの道: Apple製品年表

大好きなばあちゃんとの思い出を綴る

先日、ばあちゃんが亡くなった。

いつかこんな日が来るのだろうと想像していた日がついに来た。

人は永遠ではないので、こうなることはわかっていたけどできるだけ考えてこないようにしていた日だった。

 

小さい時の記憶はあんまりないけど、印象的なことはほとんど田舎のばあちゃんの家でのことだった気がする。

本当の山奥で、集落にも人が少なくいわゆる限界集落と言われるような場所。

 

山に囲まれていて、集落の中に綺麗な川が流れていて、小さな田んぼでお米を育てている。

 

夕焼けで真っ赤な空の中、遠くの山に向かってばあちゃんと小さな弟と「ヤッホー!!」と叫んだあの日のことは大きくなってからも鮮明に覚えている。

畑でとれた野菜を載せる手押し車にばあちゃんに乗っけてもらって近くの川に散歩に行ったりもした。(今思えば70歳手前のばあちゃんが手押し車に子供を乗っけて歩いていたことはすごい)

 

まだ集落に人がたくさん住んでいる時は、いろんな人がばあちゃんちに遊びにきた。

みんなで宴会をして、お酒を飲んでいた。知らないおじちゃんおばちゃんに可愛がられて嬉しかった。

 

ばあちゃんが好きすぎて、帰省が終わる時には泣いて帰った。

泣きすぎて、一緒にばあちゃんを連れて帰ったこともある。

仕方なく連れてこられたばあちゃんは私たちが小さい頃住んでいた家の周りの草刈りをしていた。(その様子が当時のビデオテープに収まっていた)

 

中学生の時、一生懸命頑張った受験に失敗して、もう人生終わりだとかいって(今思えば、本当に大したことではない)山奥のばあちゃんちに逃げ込んで1週間くらい泣き続けた時もあった。

 

その時ばあちゃんは

「人生は波のよう。いいことと悪いことが押し寄せては引いて、それの繰り返し。目の前の悪いことに取り憑かれてはダメだよ。ばあちゃんは50歳くらいまで本当にしんどかった。けど今は孫に囲まれて本当に幸せ。80歳になってやっと。まだ15歳でしょう。あんたなら何度でも挑戦できる。」

 

この言葉は辛いことがあった時にいつも思い出す言葉だ。

いつも笑ってばかりのばあちゃんが真面目なことを言ったのはあれが最初で最後だった気がする。

詳しいことはばあちゃんの口から語られたことはなかったけど、ばあちゃんも小さい時に実の母親が亡くなり、奉公に出されてそこから一生懸命生きてきた人だという。

 

大正14年くらいだと思う、その当時どんな辛いことがあったか想像もできない。

 

大学生になって県外に行った後はお正月の時に帰るくらいになった。

 

歳を重ねると、なんだか他のことに気を取られることが多くなって、ばあちゃんちに行ってもあまり前みたいにのんびりと過ごすことがなくなった。

 

スマホばかり見てる私たちを少し寂しそうに見ていたばあちゃんの顔が忘れられない。

もっと話しておけばよかった。こうなって、後悔に気づく。

 

だんだん孫やひ孫が増えて、仏壇の前に飾ってある馴染みのない子の名前で絵が置いてあって、ああ私たちだけじゃないのか、もっと小さい子の方が可愛いよな、となんだか嫉妬めいたものを感じたこともあった。

 

認知症がひどくなり、足腰も悪くしたばあちゃんは6年ほど前から老人ホームに入った。

それからは、近い場所にいるのにめっきり会わなくなった。

と言うより、私が会いたくなかった。

 

会いに行っても私のことがわからない。

話しているうちには、親戚か誰かなのだろうと冗談を言い合いながら笑い合うのに、帰り際には「ありがとうございます」と言って深々と頭を下げるばあちゃんをみて、たまらなくなって帰りの車で泣いた。

 

日々忙しくする中で、自分のことで精一杯で、老人ホームの近くを通り過ぎても、中にばあちゃんがいることを思い出すけど、同じ時を生きていることを忘れていた。

 

ある日一度だけばあちゃんに頼み事をされた。

クローゼットの中に小さな紙がたくさん入っていた。

揺れるような字で

「帰りたい。ここにいつ来たかわからない。」という内容のことが繰り返し書かれていた。

 

「ばあちゃん、帰りたい?」

 

「どれくらいここで過ごしているのか、いつここに来たのかもわからない。ただご飯を食べて友達としゃべって1日が終わるだけ。不自由はないけど、生きているのか死んでいるのか、これが現実なのかも時々わからなくなるの。

田舎の家だけは覚えてるの。どうかそこに帰る方法はないかな?あなたはどうにかできない?」

 

多分、私が孫だということはわからないまま頼んでいたようだった。

「わかった、何か方法がないか考えてみるね」

 

そんなことを言ったのに、私には車もないし、老人ホームの許可をどう取るのかとか色々めんどくさくなって、結局実行しなかった。

本当にそれを後悔しているし、あの時の切実なばあちゃんの顔が忘れられない。

 

コロナが流行り始めて2020年2月頃、老人ホームも閉鎖されるかもと思い、最後会いに行った。

まだ会話もできるし冗談も言えるばあちゃんに「あんたは結婚相手はいるの」と言われて「いい人がいたらベルトでも掴んで絶対に離したらダメだよ」と言われ泣きながら笑った。

 

その後、老人ホームも面会が禁止になり、全く会えなくなり2年がたった。一度ガラス越しに会ったが、ばあちゃんは誰がきたかわからないと胸の前でバツのマークをしながら頭を下げた。

帰り道、子供みたいに泣いた。

 

その後、何度かばあちゃんが手術をしたことを聞いていた。

老人ホームに戻ったのかどうなのかもわからないまま、私は自分の生活のことだけ毎日考えていた。

 

「もう危ないから、会いに来てって先生が。」

 

手術をしたことは聞いていたが、突然連絡が来て弟と会いに行った。

ばあちゃんはぐっすり眠っていた。最後に会った時よりかなり痩せていた。

 

看護師さんが「お孫さんが来ましたよ」

肩を叩くとばあちゃんが虫を払うように嫌がり、すごく辛そうな顔をしていた。

大きく呼びかけると目を少しだけ開いた。

けど、それが私たちを見ているのかどうかもわからない虚な目だった。

もしかしたら頭の中で認識しているかもしれない、そう思いながら時間が来て席を立つのが苦しかった。

 

こんな時に会社のパソコンを叩いて仕事をしている時間が悔しかった。

休みをとって会いに行こう。少しでも最後まで誰かがそばにいれれば。

そう思って親戚のおばちゃんに連絡をした。

「コロナで面会が完全にダメになった。もう厳しいかもしれない。」

 

結局会えないままだった。

最後の日を迎え、小さいころ以来あっていなかった親戚の子たちに会った。

二十歳前後の子たちは多分ばあちゃんとは小・中学生の時まで一緒に過ごしたんだと思う。

きっと私たちと同じようにばあちゃんちでの思い出があるのだろうな、と思った。

そして彼らが泣きじゃくっている姿が、私が小さい時にじいちゃんのお葬式で泣いていた時の自分の姿と重なった。

 

 

大好きだった外側カリカリのばあちゃんの目玉焼きのせご飯。

アイス買いなさいと(当時の私には)大金の2千円を渡してくれるばあちゃん。

夏にひぐらしの声を聞きながら、ばあちゃんの夜ご飯の匂いが漂ってくる中でする最高の昼寝。

冷たい畳。

 

背が伸びるたびにばあちゃんの柱に、身長をマジックで書いて他の親戚の兄弟と競い合った。

「大きくなったね〜」と笑うばあちゃん。

 

画鋲がかかとに刺さってばあちゃんにとってもらったこと。

ばあちゃんちのしょうじに穴を開けまくって怒られたこと。

 

大きな蜘蛛が出るとすぐにばあちゃんを大声で呼んだこと。

 

夕方になるとお風呂のお湯を沸かしておいでって言われて裏庭から燃えやすい木を選んで1時間かけてお湯を沸かした冬の日。

知らない近所のおじちゃんたちが餅つきをして正月用の餅を作ったこと。

 

大通りから車が見えなくなるまでじいちゃんとばあちゃんがいつも手を振ってお見送りをしてくれた家の入り口。

じいちゃんが死んでから、ばあちゃん一人でお見送りをしてくれた。

だんだん坂を上がってくるスピードが遅くなり、入り口までお見送りはできなくなった。

 

庭で花火をしたり、メダカを取りに行ったり、紅白を見てばあちゃんが「最近の歌は愛しているばっか言ってつまらない」と文句を言ったり。

 

いつも何かせかせかとしているばあちゃんだった。

もう二度と戻らない、記録の中だけの何にも変えられないかけがえのない思い出だ。

 

いろんな後悔がある。けどそれをたくさんの思い出と一緒に自分の中にずっとしまって生きていく。

 

ばあちゃん、忘れられない、楽しい思い出をたくさんありがとう。

 

 

 

 

 

 

お母さんがお母さんでよかった

14 歳で母親がうつ病発症・不安定な思春期

私の母はうつ病を患っている。

もう15年ほど。

 

私が中学生の頃からメンタルが不安定になり、穏やかではない家庭環境の中で思春期を過ごした。

 

特に大学受験の時は絶望的だった。

 

もちろん、家の家事をする人はいないので、私か弟が担当。

勉強時間は確保しないといけないが、ご飯を作ったり、皿を洗ったりするのも必要だ。

そのころは時間を節約するために皿がある程度溜まってから洗うもんだから、その癖が大学生時代まで残っていて友達から「汚いからやめろ」と注意された。

 

酒に酔った母親に勉強の邪魔をされたり、悪口を言われながらも泣きながら絶対に県外の大学に進学してこの家を出て行ってやると勉強した。

夜は母親が泥酔して攻撃してくるので家じゃ勉強ができないから夜遅くまで自習室で勉強した。(ここは父親がお金を出してくれたおかげ)

ご飯は当然家にはないので、帰りに惣菜を買って部屋で食べるか、卵ご飯を食べるとかしていた。

 

こんな状況を見て、父親が親戚の家に勉強のために預けてくれた。

正直、肩身の狭い思いだったが、親戚の人が暖かく迎えてくれ、美味しい食事と予備校への毎日の見送りまでしてくれ、これ以上ないくらい優しく一緒に過ごしてくれた。

あの家の小さな畳の部屋で見た外の景色、小さな勉強机で1日10何時間も勉強し、ご飯の時間になったらおばちゃんが呼びにきてくれるあの生活が懐かしいが、あのとてつもない将来への不安と孤独感はもう味わいたくない。

 

ただ、もし親戚の人が近くにいなかったら・助けてくれなかったら私は大学に進学できず、2浪目に突入していたと思う。そこからどうなっていたかわからない。

 

そんなこんなで母親との関係は大学入学時点では最悪だったが、物理的な距離が

できたおかげで少しずつ関係が回復していった。

 

やっぱり100%母親のことは好きにはなれない。

血は繋がっているけど、思想も人生に対する考えも全く正反対。

本当にいろんな嫌なことを言われたし、存在を否定するようなことを小さい頃からたくさん言われている。これが母親かよ、とずっと思っていた。

 

つい最近も安定剤を大量に飲んで救急車に運ばれるなんてこともある母親で、家から出られないので食料を兄弟で交代で届けるみたいなこともやり、母親とまた喧嘩するみたいなこともあるが、ムカつくという感情もあるし、このどうしようもない人間関係を家族として受け入れられている。(10代の時は他の家族が羨ましくて到底受け入れられなかった)

 

「でもお母さんがお母さんで良かったよね」

この前弟と話していて弟が言った言葉。

「でもお母さんがお母さんで良かった。なんだかんだ優しいし。」

 

私は、いつも母親と喧嘩するし、すぐ悪いところばっかり出してしまうけど優しい弟からそういう言葉が出て、確かにそうだな、と思った。

 

優しいところもたくさんあるし、何かが原因で不安定になってしまったのかもしれないけど、育ててくれて、今も話し相手にもなってくれるし、関係は緩やかに変化していっている。

 

ふと思うこと

でもこの綱渡りを経て人生が進んだけど何か一つでも欠けていたら私は今どうなっていたのだろう。

そして今もし同じような状況の子供たちがいるとき、セーフティネットはあるのだろうか。

 

私は、父親がお金を稼いでいたので、塾にも通わせてくれた。そして親戚が助けてくれた。

 

両親の収入、近くに頼れる親戚・組織がいない、相談相手がいない。

そういう子供たちはどうなのだろうか。声を拾う場所があるのだろうか。

そういうことをたまに思いながら生活をしています。

 

 

30歳を迎える前に愛想振りまくのをやめようと思った話

いつからか「いつも笑顔で」がテーマだった。

「いい人」だと思われたい。そういう思いが先行するようになったのは、何故だろう、いつからだろう。

 

こうしたいと思っても他の人を優先してわがままになれない、少し嫌だなと思っても笑顔で受け流す、そう言うクセがあることに気づいた。

 

確かに人にギブする、人に優しくすることで得をすることは多い。

前仕事でやりとりをした人が後になって良くしてくれることもある。

 

 

けれど、最近になって仕事でしんどいなと思うことが増えた。

「むべさんって積極的に取り組んでくれるよね。」

そう言われるのは嬉しい、けどなんだか無理な仕事が回ってくるようになった。

 

一方、自分の芯を持っているというか下手にペコペコすることがない人には上の人も何か配慮しているような感じだ。

もっと言うと自分の仕事じゃないことが回ってくる時に「ムッ」としているような人には仕事はいかなくなる。(年功序列成果主義じゃないので正直こういう人の方が多い。)

 

なのに、私には「むべさんなら引き受けてくれると思って」と、新しい仕事や誰もやらない仕事が回ってくる。

確かに、頼られるのは嬉しいけど、自分の仕事で手一杯な中「いい人だから・この人なら断らないだろう」というような印象になっているような気もするなあ。

 

組織で働く時には「いつも笑顔・なんでも引き受けてくれる」は損をするのではないか・・・給料も変わらないし、何かモチベが上がらないな・・と思ってしまう。

 

でも今の仕事のことでマイナスなことばかり考えていないで、30代の自分はどうありたいか考えてみた。

  • 凛としている女性
  • 自分の得を意識しすぎた過剰な親切をやめる
  • 変に相手に卑屈にならないこと
  • どう言おうか、言いすぎたなとか後から考えすぎないこと
  • 違和感を感じることはその気持ちに正直いること
  • 自然と出る笑顔を大切にする

 

もっと色々ありますが、こんな感じですかね。

30歳にやりたいことも記事に書いてみようかな。